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俳句に句読点は必要か|俳句・短歌、広告コピーの句読点

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、(てん)と。(まる)の新ルール

句読点の役割とはなんだったか。
読むときに切れ目となるところを示す、あるいは、つながってしまって誤読を誘うような箇所を切るということだった。
それならば、俳句、短歌、広告コピーといった短文では句読点は使われないのか、使うとしたらどのような効果があるのか。
今回はこのあたりを探っていく。

俳句や短歌に句読点という発想はない

近代以前には、現在のような句読点はなかった。当然、俳句や短歌にもなかった。
この特集の#02でも書いたように、句読点は句読のための便宜的な記号であり、あれば便利だが、なければないで済んでしまうというものだ。

加えて俳句には切れがある。
切れとは、そこで「場面が切り替わる」といった意味で、「や」「かな」「けり」「ぞ」といった切れ字を使ったところが「切れ」だ。松尾芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」は「古池や」で一回切れているのであり、「古池に」ではない。

ちなみに、切れ字は18種類もあるそうで、「もがな」もそうだ。
百人一首、および金槐和歌集にこんな和歌がある。

世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも
(鎌倉右大臣=源実朝)

この和歌の場合、「世の中は常にもがもな(世の中は常にこうあってほしいなあ)」でいったん切れ、「渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも」につながっている。
切れているとわかっているのだから、「世の中は常にもがな、渚漕ぐ~」と表記する意味はない。

再び俳句に戻る。
句切れは、切れ字でない場合もある。

木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ
(加藤楸邨)

この句は「木の葉ふりやまず」で切れる破調だが、俳句や短歌はだいたいどこかで切れるという頭があるので、
「木の葉ふりやまず、いそぐないそぐなよ」
とテンを打たなくても、音読するときは、
「木の葉ふりやまず いそぐないそぐなよ」
と読んでもらえるのだ。

近代の短歌には句読点付きも!

明治時代になると句読点が生まれ、これは短歌や俳句にも影響する。

葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり
(釈迢空)

この短歌では句読点を使っている(だけでなく、分かち書きもしている)。
従来に短歌なら、

葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり

と書くところだが、従来の作法とは違うことをしている。
当時の句読点は、外国語のコンマやピリオドを応用して始まった最新の流行とも言える。
この句読点を積極的に採用した実験的、前衛的、挑戦的な短歌でもあった。
ちなみに作った釈迢空は、民俗学の柳田国男の高弟、折口信夫(しのぶ)だ。

石川啄木も『悲しき玩具』の中で実験的な表記をしている。

みすぼらしき郷里(くに)の新聞ひろげつつ、
誤植ひろへり。
今朝のかなしみ。

句点も読点も使い、さらに三行詩にしている。
短歌、俳句は短冊に一行で書くという慣例があったが、これを破ったのは印刷して出版するという前提があったからだ。

と、短歌については句読点を使った作品が割と多くあったが、俳句になるとぐっと少なくなる。
やっと見つけたのが以下の句だ。

ばか、あさり、かき、はまぐりや春の雪
(久保田万太郎)

食用の貝を列挙しているが、「ばかあさりかきはまぐり」では読みにくく、「馬鹿浅蜊蠣蛤」では漢文みたいだし、「馬鹿あさり蠣ハマグリ」でもなんだかなあとなり、それならばと「ばか、あさり、かき、はまぐり」となったのかもしれない。

近代でも俳句は句読点付きが少ない!

しかし、久保田万太郎以外では、句読点付きの俳句は極めて少ない。
なぜだろう。

大根引き大根で道を教えけり
(小林一茶)

大根は「だいこ」と読む。冬の季語で、句意は、大根引き(大根の収穫をしている人)が手に持った大根で行く手を差し、「あっちだよ」のように教えてくれた情景を詠んでいる。

慣れない人は、「大根引き大根」ってなんだろうと思ってしまいそうなので、
「大根引き。大根で道を教えけり」
にしてくれよと思うかもしれない。

しかし、これは余計な配慮というものだろう。
句読点は読み手を下に見た結果でもあり、「あなたには読めないかもしれないから、わかりやすくテンマルをつけておきますね」という意味がでてしまう。

だから、目上の人への年賀状には句読点を書かない慣例がある。
ついでに言うと、結婚式の招待状にも句読点を使わない。
こちらは句読点が「切る」ことを意味するから。要は縁起をかついでいるのだ。

話をもとに戻そう。
前述したが、俳句はもともとどこかで切れ、句切れがない一物仕立ては珍しい。

たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ
(坪内稔典)

このような一物仕立ての句がないわけではないが、大半の句は取り合わせであり、すでに切れているところに句読点を打っても意味がない。

しかし、「テンがないと意味が二重にとれてしまうが、いいんだろうか」という句がないわけではない。

闇の夜は吉原ばかり月夜かな
(宝井其角)

この句は、「闇の夜は、吉原ばかり月夜かな」と読むのが普通だろう。
「江戸の町は闇に閉ざされているが、吉原(遊郭)だけは月夜のようだ」という意味だ。

ところが、「闇の夜は吉原ばかり。月夜かな」で切ると、「吉原という苦界は闇の夜のようだ。それにしても月夜がきれいだ」となって意味が逆転してしまう。
宝井其角流のダブルミーニングなんだと言えばそれまでだが、仮にどちらかの意味に限定したいのなら、句読点はとても便利な武器になる。しかし、俳句ではそれはやらない。

どうしても意味を限定させたいのなら「分かち書き」という手もある。

闇の夜は吉原ばかり 月夜かな

これなら意味は二重にならない。
あるいは、語順を変えるという手もある。

月夜かな吉原ばかりは闇の夜 

改作した句の巧拙はともかく、しかし、宝井其角はいずれの方法も採らなかった。
おそらく、意味を限定する方法は知っていたが、敢えてしなかったのだ。
そこには、いかようにも好きに読んでくれという意向があったのだろう。

俳句に句読点を用いない理由をまとめると、

・もともと句切れがあるところに句読点をつけても意味がない。
・わかりにくさを回避する方法はほかにいくらでもある。
・意味が二重にとれてもそれでかまわないという大らかさがある。

ということではないだろうか。

だったら短歌は大らかではないのかと言われると困るが、短歌に句読点を使った秀作が多い理由は、やはりその長さにある。
五七五の17音と五七五七七の31音では14音の差があり、短歌は14音長い分、散文性がある。だから、句読点が機能するのだ。