11.15更新 VOL.13 「改造」懸賞創作 文芸公募百年史
今回は、芹沢光治良を発掘した「改造」懸賞創作を紹介する。
また、「改造」が同時期に募集を開始した「改造」懸賞論文も紹介する。
第3回のときに芹沢光治良を発掘
改造社は、「改造」創刊10周年を記念し、昭和3年に「改造」懸賞創作を募集している。この頃の改造社はやることが派手だったようで、1等1500円、2等750円の賞金は当日としてはかなり高額だったようだ。
タイトルが「懸賞小説」ではなく「懸賞創作」なのは、小説と戯曲を募集していたから。面白いのは小説部門、戯曲部門と分けていないこと。受賞者を見ると、
第1回1等「放浪時代」
第2回2等(1等なし)「死なす」高橋丈雄(戯曲)
第3回1等「ブルジョア」芹沢光治良(小説)
第4回2等(1等なし)「印度」田郷虎雄(戯曲)
第5回2等(1等なし)「餓鬼道」張赫宙(小説)
……
と小説だったり戯曲だったりする。小説と戯曲は同じ土俵で戦えるのかな。格闘技で言えば、異種格闘技戦のようなものだろうか。
受賞者にのちの著名人を探すと、第3回のときに「ブルジョア」で芹沢光治良が受賞している。氏は『巴里に死す』『人間の運命』などの著作で知られる作家で、晩年には日本ペンクラブの会長も務めた。
第5回の張赫宙は、日本が統治していた朝鮮の日本語作家。第9回のときは龍瑛宗が「パパイヤのある街」で佳作に入っている。氏は台湾出身だ。
台湾での日本語統治は明治28年(1895年)から始まり、この頃は40年以上経過していたので、日本語で小説を書く若い世代が台頭していた。昭和9年に始まる第1回「文学評論」懸賞創作を「新聞配達夫」で受賞する楊達も台湾出身だ。
懸賞小説も過当競争の時代
「改造」懸賞創作で気になるのは、第9回が昭和10年で、第10回が昭和12年に実施されていること。昭和11年が飛んでおり、この年は何があったんだという感じ。昭和11年のトピックというと、二・二六事件、阿部定事件、ベルリンオリンピック……あんまり関係なさそう。
推測だが、懸賞小説が流行りすぎて、有意な才能を発掘できなくなったのが中断の理由ではないだろうか。
応募数は1000編以上あったが、第6回から応募数の公表もなくなっている。賞金は高額だが、選考は社内選考委員がやっていたようで、このあたりも中断しやすい要素だろう。選考委員がいたら、急にやめたり再開したりできない。「改造」懸賞創作は昭和11年はなんの告知もなく募集せず、さらになんの告知もなく昭和12年にしれっと再開している。一度は「募集はやめよう」と保留したが、そのあと、「やっぱりやるか」となったのかもしれない。
ちなみに改造社は、昭和8年にもう一つの雑誌「文芸」で懸賞創作を募集し始め、第3回の昭和10年に終了している。他社の状況を見ると、ナウカ社が「文学評論」懸賞創作を昭和9年、昭和10年に実施し、三田文学会は三田文学賞を昭和10年から昭和14年まで実施している(昭和10年の第1回受賞者は「若い人」の石坂洋次郎)。前回紹介した「サンデー毎日」も募集しているし、「新青年」「キング」「講談倶楽部」などでも盛んに懸賞公募をやっていたから、若い才能の奪い合いだった? 応募者もサバイバルなら主催者もサバイバルなのだ。
宮本顕治と小林秀雄がワンツーフィニッシュ
ここからは「改造」懸賞創作を離れ、「改造」懸賞論文に移る。
改造社は大正時代に台頭した出版社で、創業者は山本実彦。著名な実業家、編集者だが、個人名は知らなくても、大正15年に1冊1円で『現代日本文学全集』の刊行を始め、円本ブームを作った人と言えば、「ああ、あの人か」となるだろう。
また、大正11年(1922年)にノーベル物理学賞受賞者のアインシュタインが来日したことはつとに有名だが、アインシュタインを招聘したのも山本実彦だ。これはもう一出版社のイベントを超えているよね。編集者というより仕掛け人といった感じだ。
この改造社が大正8年に創刊した雑誌が「改造」で、「改造」は昭和2年に「改造」懸賞論文を募集し、昭和14年まで実施している。この第3回(昭和4年)の受賞者がすごい。
まず、2等からいくが、これが小林秀雄の「様々なる意匠」。説明するのも野暮だが、日本の文芸批評の第一人者、そして中原中也の親友で、中也と恋人を巡って三角関係になった人だ。そんな人の雑誌デビュー作が公募きっかけだと思うと、公募関係者としてはちょっと興奮してしまうよね。
その内容も超絶すごい。
文芸批評家の平野謙は、当時の日本の文壇は、私小説、新感覚派、プロレタリア文学が互いに対立しているとして「三派
ところが、これを超える1席があった。それが宮本顕治「『敗北』の文学」だ。宮本顕治は言うまでもなくのちの日本共産党の書記長だが、日本文学史、日本史に燦然と輝く超有名人が、同じ年の同じ公募で1等、2等だったなんてね。明日、誰かに言いたくなるうんちくだよね。
何かただぼんやりした不安である
「改造」、そして芥川龍之介と言えば、谷崎潤一郎との論争となる。
きっかけは、昭和2年に「新潮」の座談会で、芥川が谷崎の作品について、「話の筋というものが芸術的なものかどうか、非常に疑問だ」「筋の面白さが作品そのものの芸術的価値を強めるということはない」と発言したこと。
これに対して谷崎は、神社仏閣などにも様式美があり、ストーリーにも芸術性があると反論した。すると、芥川は「改造」で「文芸的な、余りに文芸的な——併せて谷崎潤一郎君に答ふ」で再反論。その後も二人は「改造」誌上で論争、というより互いの文学論を披露し合う。これが「話の筋」論争だ。
芥川と谷崎は親友であり、論争と言ってもケンカではない。論争中も谷崎夫妻と一緒に観劇に行っているし、芥川は谷崎に蔵書を贈ったりしている。
一方、谷崎は論争中に頻繁に贈り物をされることを不審に思い、「これはよっぽどどうかしている、神経衰弱がひどいんだな」と言っている。論争を読むと、谷崎は終始論理的であるように思えるが、芥川のほうはやや強引のような印象がある。
論争は昭和2年7月、芥川の自殺で幕を閉じる。前出「『敗北』の文学」は、この芥川の文学とその死を評論したもの。芥川の遺書には、心にあるのは「何かただぼんやりした不安である」と書かれているが、何に負けてしまったのかは謎だ。長編が書けなかったことか、プロレタリア文学の台頭か。谷崎との論争が原因でないことは確かだが、芥川ほどの才能があっても不安なのかと思ってしまう。
芥川のアフォリズムにこんなのがある。
人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わなければ危険である。
芥川龍之介「侏儒の言葉」
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