すべての描写が「伏線」である。 |直木賞作家・小川哲氏インタビュー


小川哲さんの著書『言語化のための小説思考』には、「『伏線』は存在しない」という章がある。伏線という言葉が日常語にまで広まった今、あなたが「伏線」と呼んでいるものは、本当に伏線だろうか。そして、「ただの描写」だと思っているものは、本当にただの描写だろうか。あらためて「伏線とは何か」を問い直した。
「伏線回収」という言葉が日常に浸透した時代に
――「伏線」という言葉は最近、日常的にも使われるようになっています。「30分前に出た話題がもう一回出てくると、それさっきの伏線回収だね」なんて会話も珍しくない。使い方が広がると、人によって言っている意味が違って会話が噛み合わないこともあります。そういう状況について、どのようにお考えですか。
小川 僕が定義している伏線の概念は、自分でも「かなりラジカル(急進的)」だと思っていて、こういう考え方をしている人はそんなに多くないかもしれません。ただ、伏線を狭く捉えすぎると、小説の豊かさが損なわれてしまう気がしているんです。
たとえば、純文学の作品は、一般的に「伏線がどう」と言われることはあまりないと思いますが、僕は純文学にも「これは伏線だな」と感じる要素があると思っています。
冒頭がリンゴを食べるシーンから始まり、最後に夕日を眺めるシーンで終わる短編小説があるとします。読者はそれが「伏線」だとは認識しない。でも、赤い球体で始まった小説が赤い球体で終わることで、読者の無意識のなかにそのモチーフが作品を貫き、最初から最後まですんなり通貫させてくれるような読み心地を生むわけです。読んでいる最中は気づかなくても、確かに機能している。
──意識されなくても効果がある、ということですか。
小川 そうです。もう少し日常的な例で言うと、冒頭、女性がスーパーの帰りにビニール袋を抱えているシーンから始まる小説があったとして、何を買ったかという細かな描写は、その女性の生活レベルや生活スタイルを表しています。それがあとあと、彼女がある事件に巻き込まれたときに、どう考えてどう動くかの根拠になる。自炊をしているとか、そういうことが作品に与える効果があるわけです。だから、そういう描写も僕は伏線だと思うんですよね。
小説って全ての描写と表現が、作品全体と有機的に絡み合っているものだと思っています。極端に言えば、すべてが伏線で成り立っている、とも言える。逆に言うと、どこにも絡まず、取り除いても小説の効果が変わらない文章はない方がいい、ということになります。
──なるほど。全てが繋がっている、関係し合っている、それも伏線と回収だという捉え方ですね。
小川 読者の方はあまり「伏線回収」とは言わないかもしれませんが、書き手としては、後の展開のなかでどういう効果があるかという意図がある。もちろん全てを意識的に意図しているかどうかは別として、作家が「この文章を残そう、この文章は生きている」と思うときというのは、その文章が作品に対して何か効果を持っているということだと思います。
いわゆる「犯人を特定するとき」がそうですが、「意外な事実が明らかになったとき、実はあれがあれを表現していた」という狭い視点だけで小説を捉えてしまうと、小説の面白さを見損なってしまう。伏線というのはもっといろんな形で小説に効果を与えているのではないかなと思います。
ミステリーの伏線に求められる「二重機能」
──ミステリーによくあるような「あ、だから彼が犯人なんだ」と納得するものだけを伏線と考えると、冒頭のリンゴは全然回収されてないじゃないかと言われてしまいますが、そんなことはないということですね。
小川 最近のミステリー小説でも、読者を誘導するためだけに存在しているミスリードはフェアじゃないということで、あまり書かれなくなってきています。ミスリードする文章自体が、ミスリードのためだけに存在するんじゃなくて、小説の他の機能にちゃんと寄与する形になっている。
ミステリーの伏線というのは、ただ伏線としてあるんじゃなくて、その小説の登場人物の生活レベルや性格を表現するための描写の一部として出てきたものが、さらに真相解明の伏線としても機能するという二重性を持っている。最近の上手なミステリーではそういうものが多い気がします。
だから、それ自体が伏線であるかどうかを、読者に分からないようにしなければいけない。明らかに何の役にも立っていないものは、目の肥えた読者だとそれが伏線であることを見抜いてしまう。いかに小説内での機能を持たせるかというのが、作者が苦心するところだと思います。
一つの文章が、より多くの他の文章と繋がって、多角的な意味を持っているのが良い小説なのかな、という気がしますね。
「桜が咲いていた」と書くことの意味
――全てが繋がっていると考えると、単に情景描写として「桜が咲いていた」と書いたことが深く読まれてしまい、「この桜がどこへ影響しているのか、でも書いた人はそんな意図がない」ということになります。それは良くないということですか。
小川 そうなってしまうのは良くないですね。ただ、「桜が咲いていた」という情報も、単に桜が咲いていることだけじゃなくて、季節が春であることとか、その場所が桜の植えられているような場所であることとか、文字通りの表現以上の効果を持っているわけです。
だから小説家としては、季節が春であることを示したいとき、必ずしも「今は春だった」と書くとは限らない。その春であることを、小説上の効果として一番支えられる表現はどれか、みんな苦心して書いているんじゃないかと思います。
上手な伏線というものは、季節を表す表現として機能しながら、それが同時に犯人の特定の根拠にもなっているみたいな、そういう二重性が持たせられているものなのかなと思います。
ご都合主義を解消するのは伏線ではなく「必然性」
──ご都合主義にならないように伏線を張る書き手も多いと思いますが、いかがでしょう。
小川 ご都合主義というのは、僕の考えでは、作中で起きた偶然が作者の利益になっている状態なんですよね。たとえば、ピンチの主人公を助けに仲間がギリギリのタイミングで駆けつける展開。エンタメ小説ではよくありますが、盛り上がるタイミングで颯爽と現れるのは著者にとって都合がいい。でも、伏線を張っても、そのご都合主義は解消されないと思います。
──ご都合主義を解消するにはどうすればいいでしょうか。
小川 「必然性」を重視することです。そのギリギリのタイミングが偶然ではなく必然だったと示すためには、たとえば、助けに来た人物が実は物陰でずっと待ち伏せしていて、自分が一番感謝されるタイミングを計っていたという展開にする必要があります。そうすれば、タイミングの良さは必然だったことになって、ご都合主義が解消されます。
──助けに来るまでに時間がかかっていた描写を入れるとか、そういう伏線的なものでは解消されない?
小川 遅れている描写を入れても、「でも結局ギリギリで間に合ったのは運がいいよね」ということはあまり解消されないんですよね。だから、それが必然だったというためには、やっぱりその動機や行動の理由を作らないといけない。
たとえば、ミステリーでみられるような、死体を発見した人物がパニックになってその場から逃げ出してしまう展開があるとします。
これもご都合主義の典型で、後の展開を生み出すためにその人が逃げ出してしまっているわけで、著者の利益になってしまっている。それを解消するのは、伏線ではなく、その人物がなぜ逃げてしまうのかという人物設計です。こういう過去を持ち、こういう性格だから、パニックになって逃げてしまうのも無理はない、と読者に思わせられれば、偶然ではなく必然になります。
──コメディーにしてしまうと、多少のご都合主義も許される、というのはありますか。
小川 それは、小説全体のリアリティーを下げることでご都合主義を「こういう世界観ならあり得る」と感じさせる方法ですね。ただ、リアリティーを下げてご都合主義を解消した場合は、その後の人間ドラマの重さも薄くなってしまうデメリットがあります。誰か大事な人を失って悲しむシーンなんかも、軽くなってしまう。作者がこの作品で表現したいことのメリットとデメリットを比較しながら作っていく感じですね。世界観や雰囲気によって、ご都合主義に見せないことも可能ですし、上手な小説はそういうことに成功しているのかなと思います。
ご都合主義を解消するのは、人物の設定や世界観そのものであることが多い。伏線だけじゃないですよね。
考察文化と「意図のない伏線」
──近年、ネット上で伏線考察が盛んです。登場人物の名前のアナグラムや何気ない小道具の意味を読み解く熱心な読者も多いですが、書き手としてはどう見ていますか。
小川 作者が特に意図せず書いたものまで伏線と見なされることも多いですね。登場人物の名前などは、多くの作家が深く考えず適当に付けている場合が多いのですが(笑)。
「適当に」と言っても、いろんな適当があって、意図はあるんです(笑)。珍しい名字にするかありがちな名字にするか、とか。僕の場合は、自分のよく知っている知り合いにいない名字を付けるようにしています。よく知っている人の名字にすると、その人のイメージに引きずられてしまうからです。
このように意味がある場合もあれば、ない場合もある。読者が自由に考察するのはもちろん構わないのですが、作者としてはあまり嬉しいものではないかもしれないですね。
「バレる伏線」と「気づかれない伏線」
──公募に挑戦する読者から「伏線を張ったらすぐバレてしまった」「バレないようにしたら誰も気づかなかった」という悩みをよく聞きます。どうしたらいいでしょうか。
小川 伏線がバレてしまうのは、その文章が小説のなかで他に機能していないからです。殺人現場に探偵が入ったとき、「床にガラス片が落ちていた」とだけ書いてあれば、それが証拠品であることは一目瞭然。その文章がガラス片を示すためだけに置かれているから浮いてしまうんです。
たとえば「西日が差し込んでいて、目の前がキラキラと輝いていた」という描写のなかに伏線を溶け込ませる。その文章は探偵が部屋に入ってきた時刻が夕方であることを伝えながら、同時にガラス片の存在も示せる。一つの文章が複数の機能を果たすことで、伏線として浮かなくなります。
──インクの瓶が重要なアイテムだったとして、机の上にインクの瓶、ボールペン、万年筆とちりばめておけば伏線であることがバレにくくなりますか。探偵は「万年筆があるのにインクの瓶があるのはおかしい」と見抜くわけですが。
小川 その場合も、たとえば、視点人物が文房具マニアという設定にして、インクのうんちくをたっぷり語らせながら自然と描写に組み込む。インクに詳しい登場人物として、そのインクがどんなメーカーでどんな特徴を持つのかを語る流れのなかで、ああ確かにそこにインクが置いてあったな、ということが伝わるようにする。
さらに言うと、その文房具マニアという個性が作品のほかの場面でも生きていくような設計にしていけば、一つの要素が別の要素と結びついて小説に厚みが出てきます。ほかの現場に行ったときにも、その文房具の知識によって事件が進んだり、何かを解決したりする展開が作れる。伏線のための伏線にしないこと、これが大事だと思います。小説が面白く流れるなかで、必然的に出てくるものが一番いい伏線です。
──一方で「気づかれなかった」という悩みはどうでしょう?
読んだことを覚えてもらえなかった、ということだと思うんですよね。伏線を隠そうとして余計な描写を増やし、肝心の文章の印象をなくしてしまっているなら、その余計な部分を削るべきです。
読んでほしいと思っている文章が読んでもらえていないのなら、その周りに入れた余計なものをどんどん削っていかないといけない。小説は一文一文を楽しんで読むもの。すべての表現が、読者の心に残るように書かれていることが、伏線かどうかに関係なく大事だと思います。
小川哲(おがわ・さとし)
1986年生まれ。小説家。2023年『地図と拳』で第168回直木賞受賞。著書に『君が手にするはずだった黄金について』(新潮社)、『ゲームの王国』(早川書房)、『君のクイズ』(朝日新聞出版)など。『君のクイズ』は映画化され、2026年5月15日に全国ロードショー。また、自身初のエッセイとなる『斜め45度の処世術』(CEメディアハウス)が4月17日に発売予定となっている。