芥川龍之介『魔術』に見る伏線回収のロジック|名作から学ぶ至高の伏線術


伏線と回収と言えばミステリーを思い出すが、実は文豪にも伏線を張った作品がある。
しかも、伏線を回収したときに、それまで見えていなかった作品の別の顔が見えてくるというサプライズまである。
今回はそんな至高の伏線術を堪能してみよう!
芥川龍之介『魔術』に見る伏線回収のロジック
芥川龍之介と言えば、芥川賞にその名を残していることから、純文学作品ばかりという印象もあるが、エンタメ小説の見本とも言うべき秀作も残している。
今回は、その中の「魔術」を取り上げる。
未読の方は、まずは「魔術」を読んでみよう。
※下記のリンクから芥川龍之介「魔術」が読めます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/95_15247.html
読んでみて、どうだっただろうか。
多くの人が、「え? いつ騙されたんだろう」と思ったのではないだろうか。
では、改めてそのからくりを確認してみよう。
以下は、芥川龍之介「魔術」のざっくりとしたストーリーだ。
01. 主人公の「私」は、インド人のミスラ君に魔術を教えてほしいと頼む。
02. ミスラ君は、欲を捨てないと魔術は使えないが、それができるかと聞く。「私」は「できるつもりだ」と答える。
03. ミスラ君は、魔術を習うには時間もかかるから今日は泊まりなさいと言う。
04. 1ヶ月後、「私」は魔術を習得し、友人たちに燃え盛る石炭を金貨に変えて見せたりする。
05. その金貨を元手にトランプで賭け事をし、「私」はことごとく勝ってしまう。
06. 一人の男が、「私」が勝ったすべての金貨を賭けて最後に大勝負を挑んでくる。
07. 負けたらこれまで勝った金をすべて奪われると思った刹那、欲がでて魔術を使ってしまう。
08. トランプの「キング」を出したとき、絵札の王様が抜け出てミスラ君になり、「私」の前に現れる。
09. 魔術を習って1ヶ月後というのは、ほんの数分だったとわかる。
10. 「私」は自分が魔術を使う資格のない人間であることを悟る。
読者の関心をそらす「ミスリード」の技術
主人公の「私」が1ヶ月後だと思っていた時間は、葉巻の灰さえ落ちていないわずか2、3分のことだったわけだが、では、どこでそう思ってしまったのか。
それが以下の箇所だ。
「では教えて上げましょう。が、いくら造作なく使えると言っても、習うのには暇もかかりますから、今夜は私の所へ御泊りなさい」
「どうもいろいろ恐れ入ります」
私は魔術を教えて貰う嬉しさに、何度もミスラ君へ御礼を言いました。が、ミスラ君はそんなことに頓着する気色もなく、静に椅子から立上ると、
「御婆サン。御婆サン。今夜ハ御客様ガ御泊リニナルカラ、寝床ノ仕度ヲシテ置イテオクレ」
私は胸を躍らしながら、葉巻の灰をはたくのも忘れて、まともに石油ランプの光を浴びた、親切そうなミスラ君の顔を思わずじっと見上げました。
* * *
私がミスラ君に魔術を教わってから、一月ばかりたった後のことです。これもやはりざあざあ雨の降る晩でしたが、私は銀座の或倶楽部の一室で、五六人の友人と、暖炉の前へ陣取りながら、気軽な雑談に耽っていました。
作中人物のミスラ君が、「習うのには暇もかかりますから、今夜は私の所へ御泊りなさい」と言い、
* * *
という時間経過を表す断章があったのち、
〈私がミスラ君に魔術を教わってから、一月ばかりたった後のことです。〉
とあれば、それはそう思ってしまう。
このとき、読者の関心は、主人公は「まず欲を捨てることです。あなたにはそれが出来ますか」と問われ、「出来るつもりです」と答えてはいたが、不安そうだったし、大丈夫なんだろうかということではないだろうか。
この「それでどうなるんだ」という関心が大きなミスリードになっている。
説得力を持たせる3つの仕掛け
芥川龍之介の「魔術」には、「魔術を教えると言いながら、それ自体が魔術だったのか」とわかってから読み直すと、「ああ、なるほど」と思える細かい伏線が仕掛けられていることがわかる。
まず、伏線とは言えないものの、説得力を持たせて読者を信じ込ませる細かい仕掛けから見ていこう。
1. 魔術を使いそうな人物設定
作中で、魔術を使うミスラ君は、こう設定されている。
マティラム・ミスラ君と云えば、もう皆さんの中にも、御存じの方が少(すくな)くないかも知れません。ミスラ君は永年印度の独立を計っているカルカッタ生れの愛国者で、同時に又ハッサン・カンという名高い婆羅門(ばらもん)の秘法を学んだ、年の若い魔術の大家なのです。
これは巧妙だ。
インド出身の人に言ったら偏見だと言われるかもしれないが、やはり修業して秘宝を学ぶといったらインドだろう。
しかも、あなたは知らないかもしれないが、すごく有名な人だという口ぶり。
こういうムードや雰囲気も読者を騙すのには重要だ。
2. 現実に魔術がありそうと思わせている
ミスラ君は魔人ではなく人間であり、しかも、魔術について、
「高が進歩した催眠術に過ぎないのですから」
と言っている。この説明によってリアリティーが増す。
しかも、ミスラ君は「私」の前で実際に魔術をやって見せている。
テーブル掛けの花が本物の花になり、ランプがコマのように回り、本が蝶のように飛ぶ魔術をやってみせることで魔術への関心が増し、ストーリーに引き込まれていく。
3. 「私」が魔術にかかったことがはっきり書いてある
そして、最大の伏線は、下記のくだりだろう。
「御婆サン。御婆サン。今夜ハ御客様ガ御泊リニナルカラ、寝床ノ仕度ヲシテ置イテオクレ」
私は胸を躍らしながら、葉巻の灰をはたくのも忘れて、まともに石油ランプの光を浴びた、親切そうなミスラ君の顔を思わずじっと見上げました。
うっかり読み飛ばした人もいたかもしれないが、ミスラ君のセリフはここだけカタカナになっている。
これはつまり、呪文だろう。
それで「私」はどうなったかというと、
〈葉巻の灰をはたくのも忘れて、まともに石油ランプの光を浴びた、親切そうなミスラ君の顔を思わずじっと見上げました。〉
はい、完全に催眠術にかかっている。
で、これをどう回収しているかというと、
私は勝ち誇った声を挙げながら、まっ蒼になった相手の眼の前へ、引き当てた札を出して見せました。すると不思議にもその骨牌の王様が、まるで魂がはいったように、冠をかぶった頭を擡げて、ひょいと札の外へ体を出すと、行儀よく剣を持ったまま、にやりと気味の悪い微笑を浮べて、
「御婆サン。御婆サン。御客様ハ御帰リニナルソウダカラ、寝床ノ仕度ハシナクテモ好イヨ」
と、聞き覚えのある声で言うのです。と思うと、どういう訳か、窓の外に降る雨脚までが、急に又あの大森の竹藪にしぶくような、寂しいざんざ降りの音を立て始めました。
「御婆サン。御婆サン。御客様ハ御帰リニナルソウダカラ、寝床ノ仕度ハシナクテモ好イヨ」
は催眠術を解く呪文だったようだ。
で、「私」はどうなったかというと、
〈窓の外に降る雨脚までが、急に又あの大森の竹藪にしぶくような、寂しいざんざ降りの音を立て始めました。〉
はい、完全に元に戻っている。
ミスラ君の家に行ったときは竹藪にしぶくような雨が降っていて、1ヶ月と思った銀座の倶楽部にいるときは雨音が聞こえなくなっていたが、ここではまた雨音が聞こえている。
しかも、葉巻は灰すらも落ちていない。それぐらいの時間しか経っていなかったのだ。
鮮やかすぎて言葉もないくらいだ。
なんのためのどんでん返しか
騙すことを目的とした作品は、なんだか作者に小ばかにされたような気がして、あと味が悪い。伏線を張って回収するのはいいが、それは手段であってほしい。
では、目的は何かといえば、その作品のテーマ表現ということになる。
芥川龍之介の「魔術」はどんでん返しが鮮やかだが、ひっくり返したあとに見えてくるものがある。
それは、「私利私欲を持ってはいけない」ということだろう。
現代人にはピンとこないところもあるが、「魔術」は大正9年(1920年)に発表された短編であり、当時の倫理観では、「欲を持ったらだめ」というのは普通だっただろう。
特に「魔術」は児童文学雑誌「赤い鳥」に発表されたこともあり、児童に向けた教訓話という面もある。
しかし、拡大解釈すれば、便利な魔術とは人間が発達させてきた文明と言い換えることもできるのではないだろうか。
文明の利器は便利ではあるけれど、それを私利私欲のために使ってはならない。
「まず欲を捨てることです。あなたにはそれが出来ますか」
という問いかけは現代人にも普遍性があり、だからこそ私たち大人の心にも響いてくるのだ。