『人のセックスを笑うな』山崎ナオコーラさんに学ぶキラーフレーズの重要性


山崎ナオコーラさんと著作にみる『何?』 と思わせる力
タイトルだけでも読まれるとうれしい
考える育児エッセイ、満を持して発売!
山崎ナオコーラさんは、デビュー当時、著作を手に取ってもらえるように「タイトルと著者名でフックを作ろう」と思ったという。
「タイトルは、多くの人に読んでもらえるからうれしいです。中身はなかなか読んでもらえませんが(笑)、少なくともこの『10文字くらいの場』は与えられているという喜びがありますね」
近刊の『ミルクとコロナ』も、社会性をもった新時代の育児エッセイであることを端的に伝える魅力的なタイトルだ。今回は、山崎さんと同年に『野ブタ。をプロデュース』でデビューした白岩玄さんとの共著であり、タイトルはオンライン会議で決めた。
内容は、4年もの歳月をかけてつづった育児にまつわる往復エッセイをまとめたもの。山崎さんにとって白岩さんは、「なんというか『新しい〝男性〞』」と感じる同期作家だそう。ほどよい距離感の2人による、交換日記のようなやりとりは、とても新鮮だ。
山崎ナオコーラさんのエッセイの執筆 一問一答
——これだけは書かないと決めていることは?
差別や故意に誰かを傷つけることはしたくないです。ただ、やらないと決めても、知らずにやってしまうこともあるという覚悟は必要です。
——山崎ナオコーラさんが言う社会とは?
社会は自分の身近にもある。コーヒー1杯飲むところにも社会はあるということを私は書きたい。主婦も主夫もニートも社会人です。
——エッセイストに向いている人とは?
共感を求める場合は雑談が向いています。自分と違う境遇の人や違う意見の人とも交わってみたいと思う人がエッセイストに向いています。
山崎ナオコーラさんが「やられた!」 と思ったエッセイ
金子光晴著『どくろ杯』(中公文庫)
夫人の森三千代に、恋人との仲を諦めさせるために渡仏を志す。金子光晴の3部作と言われる『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』の一つ。
「30 代のときに妻の『不倫相手』から妻を引き離すために世界旅行に出た話を70 代のときに書いたエッセイです。30 代のときに書いた日記のような文章もあるのですが、70 代のときのほうが面白い。他者性を得ているということだと思います」
読者の目を覚まさせるには!?
読む人がハッとして文字を追う目が止まるテクニックを三つ紹介する!
ユーモア、飛躍、キラーフレーズ
読むという行為には相当のエネルギーがいる。いくら面白いエッセイでも、なんの工夫もなければ読んでいるうちにエネルギーが削られ、疲れてしまう。
しかし、プロの手にかかると、ときどき、ハッと目が覚めるような箇所があり、集中力が増す。ロケットでいえば、補助エンジンが稼働したときのように急に推進力が増す。
具体的には、クスッと笑えるようなユーモア。それも上品なユーモアだとおかしさが長く続く。
急に文脈が飛躍して、驚かされることもある。飛躍しているように見せて飛躍してはいないのだが、一瞬、「何?」と思って驚き、次の瞬間、「あ、そういうことか」と答えを得て脳が喜ぶ。
もう一つ、核心を突いた一文や、物事の本質を見極めた一言、いわゆるキラーフレーズも読む人の目を覚まさせる。キラーフレーズは一種の格言、アフォリズムに近い。急に出るというより、日頃の思索の結晶だ。
ユーモア、飛躍、キラーフレーズ。今度、エッセイに盛り込んで読む人をハッとさせてみよう。
マイベストエッセイ
10.27発売予定の『ミルクとコロナ』は、2004年に文藝賞を同時受賞した山崎ナオコーラさんと白岩玄さんが交互に執筆したエッセイ。その中から「マスクや手洗い」を全文紹介する。
マスクや手洗い
一歳の子どもが、「マスク」という言葉を言えるようになった。まだ少ししかない語彙の中に早くも「マスク」が食い込んできたのは、この時代の子どもならではだなあ、と面白く感じる。
小児科医が「二歳未満の子どものマスク使用はむしろ危険」と言っている記事を読んだため、本人にマスクを着けることはほとんどしないのだが、外出の前などに他の家族が着けているのを見ると、「マスク、マスク」と言いながら口の前で手をぱたぱたやって一歳児も着けたがる(正確な音声としては「マッキュ、マッキュ」という感じに聞こえる)。
インターフォンが鳴ると、やはり口の前で手をぱたぱたやる。宅配業者の方などの応対の際に大人が焦りながらサッとマスクを着けて玄関に出るところを度々見て覚えたのだろう。最近は置き配指定をしているので、
「玄関前に置いていただけますか? ありがとうございます」
モニターを通じてのやり取りだけで終わらせることも多いのだが、一歳児にセリフは聞き取れないため、
「マッキュ、マッキュ」
と玄関に走っていってしまう。
一歳児にマスクのなんたるかは理解できない。おしゃれアイテムといったふうに見えているのか。大人が帽子をかぶっていたら自分も帽子、ジャンパーを着ていたら自分もジャンパー、と、とにかく真似して身につけたがるあれと同じ感覚か。乳児あるあるで「ズボンやTシャツを何枚も重ね着したがる」というのがあると思うのだが、そういう感覚の「とにかく身につけたい欲」が湧いているのかもしれない。たぶん、この人はマスクが好きだ。二歳になって着けるようになったら、自然なファッションとしてやっていくのではないか。
頻繁に手を洗うのにも慣れていて、
「洗面所、行こう」
と誘うと、「当然」という顔でスタスタ洗面所へ向かい、台によじ登り、手を出す。
この人は「マスク・手洗いネイティヴ」として育っていくんだなあ、としみじみする。
今後、コロナ禍が過ぎ去るときもくるのだろうが、マスクの使用や念入りな手洗いの推奨は続いていくのではないか。コロナウイルスが世界から完全にいなくなることはまずないだろうし、他の病気が流行るときもくるだろう。環境破壊が止まらないので、ウイルスとの棲み分けは難しく、これからも人間は病気への恐怖と共に生きていくのに違いない。
五歳児の方はすでにゆるく数年を生きてしまったあとなので、マスク・手洗いに関してはむしろ難しく感じているような気がする。ウイルスの概念はまあまあ頭に入っているみたいで、マスクや手洗いの必要性もわかっているようだが、体に染みついてはいない。
コロナ禍が始まったばかりの頃、五歳児は指の間や爪の中にも泡が入るように一所懸命やっていた。でも、慣れてくると、石鹼をサッと付けたらすぐに水で流し、横着する。注意したらちゃんとやるが、しばらくするとまたおざなりになるので、頻繁にチェックした方がいいみたいだ。
マスクを着けるのを嫌がることはないが、「イレギュラーなことをがんばってやるぞ」という雰囲気は漂う。
「病気が流行らなくなったら、これをやめようね。あれをやろうね」
といった発言もよく出るので、「日常というのは、少し前の暮らし方のことである」と考えているように感じる。
この二人は四歳差だが、平成生まれと令和生まれという、まあ元号なんかで区切るのはバカげているがそういう違いもあって、少しだけ異なる時代感覚で生きていくのかもしれない。
先月、私の妹が子どもを産んだ。子どもたちにとっては、初めてのいとこだ。感染症対策が行われる中での出産で大変だったみたいだ。そんなわけで私もまだ赤ちゃんに会えていないのだが、きっとそのうち会えるだろう。前回、白岩さんがいとこの話を書いていて、「いい関係だなあ。いいなあ」と感じた。そんな関係をこの子どもたちも築けるだろうか。ただ、社会の網目が行き渡って、「血縁」だろうがそうでなかろうが気にならない世の中になったらいいな、という夢もある。いろいろな人といい関係が築けるといい。
ともかくも、この赤ちゃんは、この一歳児よりも、さらに新しい時代感覚で育っていくのだろう。
時代が下ると、「コロナ前生まれ」「コロナ後生まれ」のような世代の違いもできるかもしれない。
そういえば、私の父と母は三歳差なのだが、その間に第二次世界大戦の終戦を挟んでいるため、父は戦中生まれで、母は戦後生まれということになる。母は何かにつけて、「私は戦後生まれだから」と言っては父との差別化を図っていた。
よく知らないが、大昔のホモ・サピエンスとかネアンデルタール人とかが、「この頃は寒くて体調を崩す人が多い。体に毛皮を巻きつけたら元気に過ごせるらしいぜ」と服を着始めたときも、「裸でいることが普通だけど、がんばって服を着るぞ」と思っていたのではないか。でも、だんだんと生まれたときから服を着ている世代が増えて、「服を着ないと恥ずかしいのに、上の世代は裸が好きだなあ」という空気が生まれたかもしれない。
今も、時代の狭間なのだろう。「マスク使用と念入りな手洗いが普通」という新しい人類に期待しつつ、私も時代に馴染んでいきたい。
ここがポイント
状況にぴったりの名づけの妙
戦中派、現代っ子、新人類。いろいろな区分があるが、「マスク・手洗いネイティヴ」という名づけがいい。名前がついて初めて状況、現象が理解できる。
忘れられない、キラーフレーズがある
内容は忘れても、ある一文だけは忘れられないという強い一行があると最高。「日常というのは、少し前の暮らし方のことである」。けだし、名言!
山崎ナオコーラ
1978年福岡県生まれ、埼玉育ち。2004年『人のセックスを笑うな』で文藝賞を受賞。ほか、エッセイに『かわいい夫』『母ではなくて、親になる』『文豪お墓まいり記』『むしろ、考える家事』など著書多数。
※本記事は2021年11月号に掲載した記事を再掲載したものです。