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【文章がボヤける人へ】伊藤比呂美さん流!「私は」と書き始めることで客観視ができる

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詩人でありエッセイの名手でもある伊藤比呂美さん。1985年の『良いおっぱい 悪いおっぱい』刊行以来、数多くのエッセイをつづってきた。大学で教えた経験もある伊藤さん流のエッセイ術はすべての人に役立つはず。

連載エッセイは行き当たりばったりがいい

——『ショローの女』は「婦人公論」での連載ということですが、連載というのは、書くことを決めてから始めるのですか。

全然そんなことはなかっですね。行き当たりばったりですよ。今回は「女であること」と「今の年齢」がキーポイントで、あとはそのときどきで考えていました。そうしないと、読者と会話をしている感じがしませんから。

——会話ですか。

そうです。「今これをみんなに話したい!」という気持ちで題材を選んでいました。たとえば、「ちょっと時間があるから先に書きためておこう」じゃダメなんですよ。締め切りがあって、「何を話そうかな、ああそうだこれを書こう」って考える。そこではじめて出てくるものがあるんですよね。それがコミュニケーション。

この連載も長いので、近所のよく知っている人とおしゃべりするような感覚で書いています。30年ぐらい前に育児エッセイを連載していたときも、同じような気持ちでエッセイを書いていました。60歳を超えて戻ってきた感じ。そういう書き方は楽しいです。

読み手とともに歩いて行けるエッセイを書く

——書くネタが思い浮かばないということはない?

困ったことはないですね。普段の生活からいろいろとネタのストックはしておきます。そのうえで、「婦人公論」の読者にあまりに合わないもの、植物のマニアックな話や、詩についていろいろ考えたことなんかは書かないですね。

——植物の話はたくさん書かれていましたが、これでもまだマイルドなほうなんですね。

本気で書こうと思ったらそんなもんじゃないですよ(笑)。でもそういうことは書きませんね。近所の仲良しに話すくらい、あるいはもうちょっと踏み込んで、友人に話すくらいのことまでです。

——それはどうしてですか。

いま私は、熊本にすっこんで暮らしていますけれど、でもやっぱりコミュニケーションとりたいんですよ。とりたくてたまらない。だから読者たちとのコミュニケーションとして、書くんだと思います。『ショローの女』はおしゃべりに近い感じでしたが、その前の『ウマし』はもっと若い人向けでしたし、アメリカにいたのでちょっと距離をとりつつ書く感じ。読者とどうコミュニケーションするのかによって書き方のスタンスも違います。エッセイも詩も、すべては結局コミュニケーションだと思うんですよね。

——詩もコミュニケーション?

何を詩と呼ぶのかという問題はありますが。何を詩と呼んでらっしゃいます?

——えっ、短文かつ俳句や川柳や短歌ではないもの?

なるほど(笑)。私の出した本には、エッセイとして売られているけれども私としては詩だなと思っているものがいくつもあります。『ショローの女』はエッセイですが、『道行きや』や『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』なんかは完全に詩ですよ。

そもそも詩とエッセイを分けるのはダサいじゃん?という気持ちもありますが、でもなぜ『ショローの女』をエッセイと思うのかといえば、どこまでも読者とのコミュニケーションに重きを置いているからですね。エッセイは読者との対話であって、読者がわかるところで止めるという意識があります。詩ならば、その先に行きたくなる。私が今わかっていることのさらに先に行くものが詩であって、読者はついてこられる人だけついてきてください、みたいな(笑)。エッセイでは、みんなと一緒に歩いていくものを書きます。

——『ショローの女』は本当におしゃべりのようで、一発書きかな?というほどの勢いがたり。実際どれくらいの時間をかけて書いていたんですか。

数字で言えればいいんですが難しいですね。まあかなり時間はかけています。書いて消して、入れ替えてを繰り返しながら完成させています。書きながら、そもそもの題材がよくなかったと思ったら一から書き直すこともありました。たぶん読者の方は、そんなふうに書かれた文章とは感じないと思います。

この頃は熊本と東京を行き来しながら早稲田大学で教えていたので本当に忙しくて、もういろんな物事を諦めながら書いてますね。優先順位があって、上位は授業や原稿。下位のほうの掃除とかメールの返信とか、届いた郵便物を仕分けるとか、そういうものをしないことで時間を作っていました。家の中はひどいことになっていましたが(笑)。

——伊藤さんのように言葉のセンスがある方でも、時間はかかるんですね。

そうですね。いつも時間がなくてギリギリ。でも、時間があったらあったで書けないとも思うんです。どこかでエイッと出す必要がありますから。締め切りはやっぱり大事ですよ。

自分らしい視点と客観性のある文章が大切

——エッセイを書きたい人、とても多いですよね。

エッセイはまず誰が読むのかが問題です。私は基本的には、一芸がある人が書くものだと思っています。その人独自の体験を語るものなので、体験がそもそも面白くなきゃいけない。小説でなにか賞を取って、名前を知られてからエッセイを書いたなら、読んでくれる人もいると思いますよ。でもエッセイだけで読んでもらうというのは難しい。

もしも、一芸のない人が書くなら、衝撃的な体験を書くか、ものすごく魅力的なタイトルや切り口が必要です。特に、日常のことを書きたいのであれば、この人でなければ絶対に切り取れない!とう切り口や言葉がいると思います。それを作っていくしかない。

——なるほど。学生さんに教えるときはどうしていました。

学生がよく書いてくる、身の回りのことをタラタラ〜と書いた文章は、はっきり言って売れないだろうなあと思いながら読んでいました(笑)。彼らに共通しているのは、誰か有名なエッセイを読んで参考にして書いているということですね。世に出ているようなエッセイは、何者かになっている人が書いていますので、ある種の書き方をしても読者はついてきてくれます。でも1歩も踏み出していない学生がその書き方をしても面白くはならない。

特にダメなのは、前半で原稿用紙何枚分にもわたって主語のないふわっとした話が続くエッセイですね。「私は」とか「僕が」とかの主語がなんにもないので話がボヤっとしたまま。内容も日常茶飯事を書いてくる。これはいったい誰?となってしまいます。私はまだ彼らのことを知っているからいいけど、知らない人が読んだらもっとボヤっとなりますよ。

だから私が口を酸っぱくして言っているのは、「私は」から文章を書き始めろということですね。主語のないエッセイというのは、目が胸のあたりにドンとついて、それによって見たものを自動筆記しているみたいなダラダした文章になります。自分=文章で客観性が全くないんです。あとで取ってもいいから、とにかく「私は」と書き始めてほしい。そうすることで、客観視ができますからね。

——「私は」と書くほうが主観的になるような気もしますが……。

そういう反論をした学生いました(笑)。でも違うんですよ。「私は」と書くことで、「私がこれをしたんだな」「私がこれを見たんだな」と文章の中で自分を他者化できるんです。それがポイント。客観性のないエッセイはナルシズムに陥ってしまいます。ナルシシズムはエッセイにおいて一番けるべきことです。

客観視するのにもう一つよい方法があります。それが「どこでもいいから笑いをいれる」です。クスっとくらいでもいいので、笑わせるつもりで書く。「自分バカだなあ」と思った部分があれば、その面白さをきちっと読者に伝えられるようにする。それができたらその文章は確実に客観性があります。どんなエッセイでも笑いは意識して入れてほしい。主語も笑いも、うまく書けたあとはとっちゃっていいです。そのほうがいいと思う。重要なのは客観性を持った文章にすることです。

 

伊藤さんに聞くエッセイと言葉

詩人であり言葉に対して鋭い感性を持つ伊藤さんに、エッセイにおける言葉と文章について伺った。

——エッセイにおける言葉で気を付けるべきことは?

「昭和まだら」を避けましょう。基本は今の言葉ベースで書いているのに、あるところだけ急に昭和・大正のような言い回しがでてくる文章をよく見かけます。皆さんいろいろなエッセイや名作小説を読んだうえで書いているからだと思います。言葉というのは、その時代のその文脈の中でのみ生きているものですから、今を生きている私たちが昭和の文章を使おうとするとやはり不自然です。今の生活で使っている言葉でエッセイも書きましょう。

——こう書くとよいというアドバイスはなにかありますか?

これは私自身も感動したのですが、音声入力ですね。人はみんな自分の声を持っていて、その人独自のリズム感や言葉の選び方が必ずあります。私がエッセイを書き始めた頃はまだ手書き原稿でしたので、考えたことをまとめてから紙に書いていました。それがワープロの出現により話すように書けるようになり、とうとう話して書けるようになっています。自分の声のオリジナリティがそのまま出せる音声入力は本当におすすめです。と、学生たちにもすすめていましたが誰もやらないんですよね(笑)。

エッセイ術

卑しめて書かない

私のエッセイは、あけっぴろげとかあけすけと言われることがあります。ときには下品と書かれることも。でも私としては、恥ずかしいようなことを書いているつもりはありません。生理のことなんかも、事実としてあるわけですから、なにが恥ずかしいんだと思っています。ただ、そういった話を書くときに大事なことはあって、卑しめて書かない、ということです。卑しめて書いた瞬間に、下品になってしまいます。

書くときは行分けにして

私は詩人なので、エッセイを書くときも原稿は行分けにして書きます。行分けで書くと余分な文章がよく見えるんですよ。そういった余分なものはどんどん削りますね。言いたいことはどこなのかを突き詰めていく。でも削りすぎると、今度は自分の言いたいことだけを詰め込んだ読みづらい文章になってしまいます。そしたら今度は改行したのをつなげていきます。削った文章を戻したり、全然関係のないものを入れたりします。

自分のこと以外は書かない

基本的には自分のことしか書きません。というのも、他人のことに踏み込むのはとても難しいんですよ。「このときこういう会話をして、私はこう思った」は書けますが「あの人はこう思ったんじゃないだろうか」と推測を書くことが私はできない。もうすこし踏み込めばわかりやすいかもと思うことはありますが、私は踏み込むやり方はしないですし、それが私なんだなと思っています。
 

伊藤比呂美
1955年、東京生まれ。詩人。78年に現代詩手帖賞を受賞してデビューし、80年代の女性詩人ブームをリードした。99年『ラニーニャ』で野間文芸新人賞、2006年に『河原荒草』で高見順賞、07年に『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』で萩原朔太郎賞など、受賞歴多数。『おなか ほっぺ おしり』など、育児エッセイという分野の開拓者でもある。近著に『ウマし』『道行きや』など。

※本記事は2021年11月号に掲載した記事を再掲載したものです。