1.10更新 VOL.16 「宝石」懸賞小説 文芸公募百年史
今回は、昭和20年代から30年代にかけて、日本の推理小説を牽引した「宝石」の懸賞小説について紹介する。山田風太郎、鮎川哲也、多岐川恭、笹沢左保、西村京太郎、夏樹静子も投稿した旧「宝石」だ。
戦後の推理小説を牽引した雑誌「宝石」
かつて「宝石」という雑誌があった。光文社の「小説宝石」ではない。ここで取り上げる「宝石」は昭和21年、岩谷書店から創刊された推理小説誌だ。推理小説誌と言えば、日本初の本格推理小説、江戸川乱歩「二銭銅貨」を生んだ「新青年」じゃないのかと思うかもしれないが、「新青年」は戦中に推理小説色が薄れ、戦後も変わらなかった。乱歩は「新青年」を元の推理小説誌に戻そうと尽力したが、実現せず、そんなときに「宝石」が創刊され、以降、乱歩はもっぱら「宝石」に軸足を移していく。
「宝石」は戦後の推理小説を牽引する雑誌に成長し、最盛期には約10万部を発行するほか、別冊や叢書も発行して勢いがあったが、昭和25年ぐらいから左前になる。翌26年には編集主幹だった城昌幸が社長となり、宝石社として独立するが、その後も経営は安定しない。そこで昭和32年、てこ入れ策として江戸川乱歩が編集長となり、私財100万円を投じるとともに、遠藤周作、吉行淳之介、石原慎太郎といった一般文芸の作家にも探偵小説を書かせ、なんと1年で赤字解消に漕ぎつける。乱歩の推理小説に対する情熱と編集手腕は相当なものだったようだ。
しかし、昭和34年に乱歩が病気で入院すると、経営は再び悪化していく。推理小説はシンプルにワクワクするし、謎を解くという知的快感もあるから読む人を魅了するが、この時代の本格推理小説はパズラーと言われるように謎解きプロパーであり、文学性が薄い。直木賞の対象にもされないジャンル小説だったから、昭和20年代、30年代に中間小説ブームが来ると、純文学でありながらエンタメ性もあるという中間小説に押されてしまう。かくて昭和39年、宝石社は累積赤字で倒産し、版権は光文社に1500万円で買い取られ、その名は「小説宝石」に引き継がれる。
山田風太郎が受賞、鮎川哲也は賞金でトラブル
「宝石」は昭和21年から、不定期ながらほぼ毎年、名称も変えながら懸賞小説を開催しているが、その受賞者がすごい。すべては書ききれないが、主だったところを見てみよう。
まず、昭和21年、「宝石」探偵小説募集を実施。選考委員は江戸川乱歩、城昌幸、水谷準の3氏。賞金は1枚50円。つまり、上限の50枚で受賞したら2500円だ。
受賞者は7名いたが、この中に山田風太郎「達磨峠の事件」、島田一男「殺人演出」がいる。
「宝石」探偵小説募集は昭和22年、23年と継続され、昭和24年には「宝石」百万円懸賞コンクールと改称されて実施される。同賞にはA(300枚以上)、B(100枚前後)、C(50枚前後)の3部門があり、Aの一等は鮎川哲也(中川透)「ペトロフ事件」、Bは飛ばして、Cの一等は土屋隆夫「『罪深き死』の構図」だった。
賞金は総額で100万円であり、A一等30万円、B一等15万円、C一等5万円と差がある。鮎川哲也はこのとき、賞金不払い問題でトラブルになったそうだ。昭和24年の初任給は4000円ほどだったそうなので、賞金30万円は75人分の給料に当たる。急には払えないのでちょっと待ってくれとでも言われたのだろうか。
ちょっと寄り道。Cの一等になった土屋隆夫は『推理小説作法』の中でこう書いている。
そのころの私は、学徒改革によって新しく作られた新制中学校の教師であった。私の自宅のすぐ近くにあって、私は毎日、歩いてこの学校へ通っていた。(中略)私は、教師になって三年目であったが、月給は五千円にも満たなかったと思う。だから、賞金の五万円は、給料の十倍以上で、大へん魅力的な金額であった。その高額な金に、心をひかれたのは当然である。
(土屋隆夫『推理小説作法』)
土屋隆夫は投稿マニアだったようで、そのきっかけは昭和11年頃、「新青年」の「有名人に宛てたラブレター」という投稿募集で賞金5円を得たことだったそうだ。コーヒー1杯50銭の時代だったそうで、賞金はその100倍だから、現在の価値にすると3万円ぐらいか。これに味をしめ、懸賞募集とあればなんでも食いつき、松竹本社が募集していた新歌舞伎の戯曲募集にも応募し、「彩管武士道」で入選、賞金1000円を得ている。
この賞金は、いつ招集令状が来るかわからない戦中ゆえ、ほとんどを女遊びに費やした。当時の遊郭は一晩20円もあれば足りたそうなので、使いきるのに半年かかったと言う。半年で50日というと、三日と空けずに通った計算になるが、若くて独身、いつ死ぬともわからない身なら、まあ、みんなそうするだろうね。
ちなみに、土屋氏は「懸賞界」という懸賞情報満載の雑誌を見て応募していたそうだ。「懸賞界」は昭和10年創刊、戦後も昭和30年代まではあったと思う。公募ガイドの先祖のような雑誌で、以前は会社の書棚に置いてあった。昭和の中期にはほかに「懸賞世界」「最近の懸賞」「懸賞案内」といった類誌があったようで、阿刀田高先生も結核療養中によく読んでいたそうだ。
「昔も公募ガイドみたいな雑誌があってね、『懸賞界』ではない別の雑誌を読んでいたのだが、他誌のクイズ懸賞を転載して答えまで書いてあるんだよ」とおっしゃっていた。
以上余談。
多岐川恭、笹沢左保、西村京太郎、夏樹静子らが入選
「宝石」は、昭和26年から年1回、「宝石」短編探偵小説懸賞を募集(昭和26年、27年は「宝石」』二十万円懸賞短編コンクールの名称)。これが昭和35年には「宝石賞」となり、昭和37年に「宝石中編賞」が併設されると、「宝石賞」は「宝石短編賞」と改称。これらの中からのちの著名人を探してみよう。
〔宝石賞〕
昭和28年 佳作 多岐川恭「みかん山」
昭和30年 第二位 多岐川恭「落ちる」
佳作 多岐川恭「黄いろい道しるべ」
昭和33年 佳作 笹沢佐保「闇の中の伝言」
候補 笹沢佐保「九人目の犠牲者」
昭和35年 候補 和久峻三「紅い月」
昭和36年 候補 西村京太郎「黒の記憶」
候補 灰谷健次郎「神々の悪事」
〔宝石短編賞〕
昭和38年 候補 辻真先「生意気な鏡の物語」
候補 和久峻三「金の卵」
昭和39年 次席 辻真先「仲の良い兄弟」
〔宝石中編賞〕
昭和37年 候補 斎藤栄「女だけの部屋」
候補 夏樹静子「ガラスの鎖」
昭和38年 入選 斎藤栄「機密」
多岐川恭は乱歩賞作家にして直木賞作家。笹沢佐保(笹沢左保)はのちに「木枯し紋次郎」で有名になるが、昭和33年は投稿大当たりだったようで、まず、機関誌『全逓新聞』の懸賞小説で「ある犠牲」が入選し、そのあと、「宝石」で「闇の中の伝言(「伝言」と改題)」と「九人目の犠牲者(「九人目」と改題)」が候補作となり、うち「伝言」が入選している。
和久峻三も乱歩賞作家で、「赤かぶ検事奮戦記シリーズ」が有名。西村京太郎は「十津川警部シリーズ」やトラベルミステリーで知られる。灰谷健次郎は児童文学作家として知られるが、意外や意外、ミステリーを投稿したこともあった。辻真先は「宝石」の入選をきっかけにジュブナイルの執筆のほか、1500本ものアニメ脚本などを手がけた。斎藤栄は『殺人の棋譜』で江戸川乱歩賞を受賞。将棋ファンとしても知られる。夏樹静子は説明するまでもないミステリーの女王だ。
レギュラーの懸賞小説のほか、宝石社では、昭和33年に、週刊朝日・宝石共催 短編探偵小説懸賞を創設。第1回では二等に佐野洋「銅婚式」が、候補作に笹沢佐保「ボタン押すのも嫌になった」が入り、第2回では佳作3編のうちに黒岩重吾「青い火花」と笹沢佐保「勲章」の2編が入っている。
最後におまけ。今でてきた週刊朝日は、昭和24年に「百万人の小説」という懸賞小説を募集(発表は昭和25年)。特選につぐ優賞(ユーモア小説部門)に『人間の條件』を書く五味川純平が「家族裁判」で入り、入選にのちに剣豪小説で知られる南條範夫が「出べそ物語」で選ばれているが、なんといっても出色なのは三等の松本清張「西郷札」だ。
清張の処女作だが、本来はこの作品が一席だった。しかし、清張が朝日新聞西部本社に勤めていたため、「身内から受賞者を出すのはどうなのか(やらせだと思われないか)」という意見がでて、三席となった。
「週刊朝日」の編集部勤務ならともかく、朝日新聞の、しかも西部本社勤務では問題ないと思うのだが、世間体を慮って三席にするというあたりはいかにも昭和的だ。
文芸公募百年史バックナンバー
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