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1.24更新 VOL.17 続「サンデー毎日」懸賞小説 文芸公募百年史

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VOL.17 続「サンデー毎日」懸賞小説 


今回は、大正15年から昭和52年まで続く「サンデー毎日」懸賞小説のうち、昭和11年以降を総覧し、併せて「サンデー毎日」創刊30年記念100万円懸賞小説を取り上げる。

出身者にのちの直木賞作家がごろごろ

大正15年に「サンデー毎日」が創刊されたのを記念し、「サンデー毎日」大衆文芸が創設され、第1回の角田つのだ喜久雄を皮切りに、花田清輝、井上靖、源氏鶏太などを発掘したことは、この連載のVOL.12で紹介したが、「サンデー毎日」大衆文芸は息が長く、最終的には昭和52年まで続く。連載は年代順にやっているので、同賞をいっぺんにやると戦後になってしまうため、昭和10年までとした。今回はこの続きをやろうと思う。

昭和11年以降の入選者のうち、のちに大成した作家を挙げると、まず、
第23回(昭和13年下半期)藤野庄三(山岡荘八)「約束」
が目に入る。
昔は書店に行くと、山岡荘八『徳川家康』全50巻が置いてあり、挑戦意欲をそそるのか、読破に挑む人もいた。

第42回(昭和27年下半期)伊藤恵一(伊藤桂一)「夏の鶯」、杉本苑子「燐の譜」
この回は大当たりだったようで、二人とも直木賞作家だ。
第47回(昭和30年上半期)寺内大吉「逢春門」、新田次郎「山犬物語」
この回も同様だ。二人とものちに直木賞を受賞する。同時に受賞した人が活躍すると、刺激されて頑張るということなのか。
第54回(昭和33年下半期)黒岩重吾「ネオンと三角帽子」
社会派ミステリーで知られる作家で、氏も直木賞作家だ。

ほか、第20回(昭和12年上半期)大池唯雄(受賞作は「おらんだ楽兵」)や、第25回(昭和14年上半期)大庭さち子(受賞作は「妻と戦争」)も直木賞作家らしい(実は今回、初めて知った)。
詳細に調べればまだ隠れた著名人がいるのかもしれないが、今挙げただけでも10人以上の作家がいる。プロ作家を輩出する歴史的な懸賞小説と言って間違いないだろう。

著名な作家が同時に3人入選

「サンデー毎日」は、大正15年に年2回募集の「サンデー毎日」懸賞小説を創設し、昭和35年に「サンデー毎日小説賞」に改称して公募を継続するが、第5回の昭和38年で公募は中止となる。しかし、「読物専科」の創刊を機に、昭和44年、「サンデー毎日新人賞」として復活し、昭和52年まで公募を実施している。

この「読物専科」はすぐに「サンデー毎日別冊」に変更され、翌昭和45年、今度は「小説サンデー毎日」と改題されている。誌名がころころ変わるくらい迷走していたのか、受賞者のほうもあまり振るわない。第5回(昭和49年)に赤木駿介(受賞作は「蟻と麝香」)がいるが、直木賞作家を輩出した昭和20~30年代の勢いはあまりないようだ。継続は力なりとは言うものの、やはりマンネリはあるだろう。

時を昭和20年代に戻すと、「サンデー毎日」は単発の懸賞小説も実施している。それが創刊30年記念100万円懸賞小説だ。実施されたのは昭和26年で、このとき、定期開催の「サンデー毎日」大衆文芸は休みにしている。こちらは賞金5万円だったが、記念事業として公募された賞は賞金100万円だから、常連の応募者のほか、ふだんは「サンデー毎日」には応募していなかった作家志望たちもこぞって応募しただろう。

結果は以下のとおり。
現代小説1席 新田次郎「強力伝」
現代小説2席 有馬範夫(南條範夫)「マルフーシャ」
歴史小説1席 松谷文吾「筋骨」
歴史小説2席 黒板拡子(永井路子)「三条院記」


新田次郎、南條範夫、永井路子。いや、これは信じがたい大成功だ。100万円払っても全然惜しくない。新田次郎は有名すぎるのはいったんスルーし、まずは南條範夫。現代小説で入選しているが、歴史時代小説で知られる。氏も直木賞作家だ。永井路子ももちろん直木賞作家で、知名度で言えば新田次郎に負けずとも劣らない。『草燃える』と『毛利元就』が大河ドラマの原作になっているし、著書も膨大にある。
この三人が同時に入選なんて、これは時代のせいなのか。懸賞小説も今ほどは数がないから、高額賞金を懸けると応募者が集中するのかもしれない。

新田次郎という懸賞小説応募マニア

最後に、いったんスルーした新田次郎に触れよう。
中央気象台(現・気象庁)に勤務していた新田次郎は、戦後、職業作家を目指して少年小説を書いていたが、芽がでないままでいた。そんな折の昭和24年、妻の藤原ていが、二人の息子(その一人が『国家の品格』の藤原正彦)を連れて満州から引き揚げてきたことを書いたノンフィクション『流れる星は生きている』がベストセラーとなる。これに触発されたのか、昭和26年、新田次郎は前記の「サンデー毎日」創刊30年記念100万円懸賞小説に応募し、見事、1席を射止めたというわけだ。

余談ながら、新田次郎は受賞後、村上元三の紹介で新鷹会に入会している。新鷹会は大衆文学の大御所、長谷川伸の勉強会で、毎月15日に行われる勉強会には多くの作家が参加し、村上元三や山岡荘八といった大御所に門下生は作品を酷評されたそうなのだが、新田次郎は職務の都合で合評会に参加できず、のちに退会している。

しかし、小説の勉強はしたいと思っていたようで、池波正太郎、戸川幸夫らと「炎の会」を結成し、月1回、山ごもりし、炎が燃えあがるほどの酷評を互いにし合ったそうだ。結果、新田次郎は山岳小説、池波正太郎は時代小説、戸川幸夫は動物文学でそれぞれ第一人者となる。もともと才能があった三人ではあったと思うが、研鑽がいかに才能を伸ばすかということではないだろうか。

懸賞小説に戻ろう。新田次郎の興味深いところは、昭和26年に「強力伝」で「サンデー毎日」創刊30年記念100万円懸賞小説を受賞し、同作で昭和30年に直木賞を受賞するが、その後も応募を続けていることだ。大きい賞を受賞しても即プロというわけでもなければ、懸賞小説に応募すること自体は問題ないが、通常は「アマチュアとしてはもうあがり」ということで、懸賞小説には応募しなくなることが多いように思う。

ところが、前述したように、昭和30年の「サンデー毎日」懸賞小説に応募し、「山犬物語」で受賞しているのだ。さらには、昭和30年に公募された「大衆文芸30周年記念100万円懸賞」にも応募し、「孤島」で受賞している。その年に直木賞の候補に上がるような作家が懸賞小説に応募して受賞するって今なら考えにくいが、一つ思うのは、昔の作家志望者はやたらめったら猛烈に応募したということだ。まだ日本は貧しく、しかも、過当競争の時代ということもあったかもしれない。

脚本家のジェームス三木さんも、「懸賞と名のつくものにはダボハゼのように応募した」と、これは公募ガイドに出たときに言っている。せっかくなので、原文を引用しよう。

 私はコンクールとかオーディションとかいうと、ダボハゼのように見境なくトライするくせがあった。 (中略)
 私が若いころの自分をえらいと思うのは、自分に掟をつくったことだ。掟というのは、やろうかやるまいかと迷ったときには必ずやるということだ。常に積極的に動くことを自分に課し、たとえいやでもやるほうに自分を向けていったことだ。
 やらなくて後悔するよりも、やって失敗したほうがいい。失敗は貴重な経験として残るのである。私は打率の高いバッターよりも、打席数の多いバッターでありたいと思う。たくさん打席に立ちさえすれば、たとえ打率は低くても、ヒットの絶対数では勝つかもしれないからである。
ジェームス三木(公募ガイド1992年4月号掲載)

打率の高いバッターより打席数の多いバッター。なかなか沁みますね。



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