3.17更新 VOL.21 中央公論新人賞 文芸公募百年史


今回は、戦前からある総合雑誌にして、昭和の文芸を牽引した「中央公論」の中央公論新人賞を取り上げる。
第1回深沢七郎を皮切りに、福田章二(庄司薫)、尾辻克彦(赤瀬川原平)、池澤夏樹らを発掘した老舗文学賞だ。
「文學界」に続き、「中央公論」が名乗りを上げる
前回、紹介した文學界新人賞は応募要項に「日本初の試み」とあった。何が日本初なのかというと、商業誌に小説を発表したことのない新人を対象としたことだ。それまでの懸賞小説も新人発掘の機会ではあったが、育成は目的としていない。対して新人賞はのびしろも含めて選考し、受賞させ、文芸誌に小説を書かせることで編集者が育成していく。これは文芸誌を持っていない出版社にはできないことだった。
同業他社が何か新しいことを始めた場合、静観することが多いだろう。考えなしに追従して共倒れになってもかなわない。“ちょっと様子見”となるのが一般だ。文學界新人賞についても同様だったと思うが、これが大成功を収め、「太陽族」という流行まで生んでしまったから、ライバルたちは騒然となった。「おい、俺たちもやらなくていいのか」と。
いち早く反応したのは中央公論社だった。「中央公論」と言えば、前身の雑誌が創刊されたのは明治19年、「中央公論」に誌名変更したのでも明治32年。対して「文學界」は昭和8年創刊、会社の文藝春秋の創業は大正12年、どちらも歴史と権威ある出版社ではあるが、「中央公論」から見れば「文學界」は新参者だったかもしれない。このプライドが、昭和31年、中央公論新人賞を創設させた。
中央公論新人賞の応募規定は、400字詰原稿用紙50~100枚。賞金30万円、選考委員は伊藤整、武田泰淳、三島由紀夫。一方、文學界新人賞は、400字詰原稿用紙100枚以内。賞金30万円、選考委員は伊藤整、井上靖、武田泰淳、平野謙、吉田健一。かなり意識していると言える。たまたま偶然ということはないだろう。しかし、ここまで意識したら石原慎太郎『太陽の季節』を超えるものを発掘しなければならない。プレッシャーだ。
三島由紀夫絶賛、文句なしの傑作誕生
第1回中央公論新人賞受賞作は、深沢七郎『楢山節考』だった。この作品は姥捨伝説を下敷きにしており、がんを患った母親が自ら餓死しようとする生と死を扱ったもの。『太陽の季節』がドライなら、『楢山節考』はどろどろだが、敢えて『太陽の季節』とは真逆の作品を選んだところに中央公論の矜持を感じる。しかし、「姥捨伝説」で「太陽族」に勝てるかという問題もあるだろう。ところがどっこい、『楢山節考』は昭和32年のベストセラーになり、映画化もされる。当たりだ!
以下、うろ覚えなのだが、第1回中央公論新人賞の予選通過作品を読んだ選考委員が「もっといい作品はなかったのか」と言い、予選落ちした作品を詰めたダンボールをあさってみたところ、「楢山節」という自作の楽譜までついた変わった小説があり、それが『楢山節考』だったという話を聞いたことがある。いや、全くの記憶違いである可能性も捨てきれないのだが、昭和の頃の予選はけっこう雑で、「『いい作品を数編選べ』というので、いい作品が数編見つかった時点であとの作品は捨てた」と言う予選委員もいたぐらいなので、昔の予選はどの賞も似たり寄ったりだったのでないかと思う。
結果、発掘した深沢七郎とはどんな人物か。氏はギタリストとして日劇ミュージックホールに出演し、ストリッパーの後ろでギターを弾いていたという異色の経歴を持つ。それが何を思ったか作家を志し、公演の合間に日劇の楽屋で執筆して彗星のごとく文壇に現れたというのだから、マスコミとしても取り上げたい話題の人物ではなかっただろうか。しかも、デビューは41歳というから遅咲きである。その意味でも、いろいろお騒がせがあったということでも、昭和30年代に関しては石原慎太郎と肩を並べていただろう。
評価については、石原慎太郎『太陽の季節』は賛否両論だったが、深沢七郎『楢山節考』は満場一致だった。選考委員の選評を抜粋してみよう。
武田泰淳 いかなる残忍なこと、不幸なこと、悲惨なことでも、かえってそれがひどくなればなるほど、主人公の無抵抗の抵抗のような美しさがしみわたってくる。
伊藤整 日本が忘れていたものがこの作品にはあって、ああこれがほんとうの日本人だったという感じがする。
三島由紀夫 総身に水を浴びたような感じがした。父祖伝来貧しい日本人の持っている非常に暗い、いやな記憶、現世にいたたまれないくらい動物的な生存関係に訴えてわれわれをこわがらす。
三島由紀夫が一番推していたようで、『小説とは何か』にこう書いている。
〈はじめのうちは、何だかたるい話の展開で、タカをくくって読んでいたのであるが、五枚読み十枚読むうちに只ならぬ予感がしてきた。そしてあの凄絶なクライマックスまで、息もつがせず読み終ると、文句なしに傑作を発見したという感動に打たれたのである。〉
福田章二(庄司薫)、尾辻克彦、池澤夏樹らを輩出
中央公論新人賞は、昭和39年の第9回で一時中断し、昭和50年に再開、平成6年(1994年)まで継続されるが、その歴史の中で数々の名作を世に生み出している。
第3回(昭和33年)福田章二「喪失」
それ、誰ですかと思うかもしれないが、昭和44年(1969年)に発表され、第61回(昭和44年上半期)芥川賞を受賞した「赤頭巾ちゃん気をつけて」の作者、庄司薫の本名が福田章二と言えばどうだろうか。
第6回(昭和36年)色川武大「黒い布」
これもわからない? 純文学のほうの名義は知名度がないかもしれない。しかし、『麻雀放浪記』の阿佐田哲也と言えばわかるだろうか。このペンネームは「朝だ、徹夜だ」が由良と言われている。ナルコレプシー(居眠り病)という睡眠障害があり、伊集院静『いねむり先生』のモデルでもある。
再開第5回(昭和54年) 尾辻克彦「肌ざわり」
これもわからない? 中央公論新人賞は別名義が有名な作家が多いな。尾辻克彦は、精巧な千円札を描いて検挙され、また、「超芸術トマソン」という流行を生みだしたイラストレーター、赤瀬川原平の作家名だ。
「肌ざわり」は主人公が書いた小説と小説を書いている作者が同居しているメタフィクションで、河野多恵子は選評で「普通なら下読みで落とされかねない作品をよく掬ってくれた」とコメントしている。
第7回(昭和56) 高橋洋子「雨が好き」
NHK朝ドラ「北の家族」でヒロインを努め、数々の映画、ドラマに出演していた女優の高橋洋子が受賞。ちなみに「残酷な天使のテーゼ」の歌手、高橋洋子は別人だ。
第13回(昭和62年) 池澤夏樹「スティル・ライフ」
同作で芥川賞受賞、芥川賞の選考委員もしていたので、説明は不要だろう。
著名な作家の発掘率は高かったと思うが、中央公論社は1990年代に経営が悪化し、1999年に中央公論新社として読売新聞グループ傘下に入った。新会社になっても「中央公論」は残ったが、中央公論新人賞は中断したままだ。
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