3.7更新 VOL.20 文學界新人賞 文芸公募百年史


今回は、日本初の試みだった文芸新人賞の草分けにして純文学の王道を行く文學界新人賞を取り上げる。受賞者はのちの東京都知事、石原慎太郎だ。
石原慎太郎が新しい扉を開いた
昭和30年、文壇が騒然となる。文學界新人賞の受賞作があまりにも不適切な内容だったからだが、にも関わらず、この作品は若者には支持され、太陽族という流行まで生んだ。
文學界新人賞は昭和29年に創設され、昭和30年に第1回受賞作が決まるが、それが石原慎太郎「太陽の季節」だった。
同作は昭和31年、第34回(昭和30年下半期)芥川賞もW受賞し、これが一大ムーブメントを巻き起こす。世の若い男たちは慎太郎刈りにサングラスをかけ、湘南海岸に若い女性を引っかけにいった。小説や映画を真に受けてナンパに行くなんて頭悪そう? 戦前ならここまではブームにはならなかったと思うが、ちょうどテレビの時代の幕開けということも大きかった。加えて石原慎太郎がテレビ映えする男だったから、文壇内の出来事ではなく、社会現象にまでなってしまった。
後年、石原慎太郎は「俺は芥川賞を獲って有名になったわけじゃない。俺が芥川賞を有名にしたんだ」と言ったが、まさにそのとおり。石原慎太郎の前、第33回(昭和30年上半期)に芥川賞を受賞した遠藤周作は、「授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が十人ほど集まるだけのごく小規模なもの」と言い、遠藤周作の前々回、第31回(昭和29年上半期)に芥川賞を受賞した吉行淳之介も、「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と言っている。
つまり、芥川賞・直木賞は文壇の中のトピックに過ぎなかったわけだが、「太陽の季節」以後は受賞がジャーナリズムで取り扱われるようになり、これは今も続いている。
菊池寛は芥川賞・直木賞創設時、「新聞社の各位も招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いて呉れない新聞社があったのには、憤慨した」(文藝春秋「話の屑籠」)と愚痴を言っているが、賞創設から20年にしてようやく「芥川賞、直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ」という趣旨が全うできたわけだ。
2日で書いて3日かけて清書
石原慎太郎は一橋大学時代に「一橋文芸」を復活させ、その中に自身も「灰色の教室」という短編を載せている。この号が部員の手によって「文藝春秋」の「同人雑誌評」に送られ、「灰色の教室」は浅見淵に激賞された。石原慎太郎もその号を手にしたが、見ると文學界新人賞の第1回候補作が発表されていた。当時、同賞は年4回募集し、4回の候補作から受賞作を選ぶ形式だったが、そこに最初の候補作の評が載っていた。選考委員には伊藤整(一橋大学OB)もいて、氏も褒めていたが、それに対して石原慎太郎はこう思った。
印象は、なんともつまらぬこんな作品をなんでこんな顔ぶれの人たちがこうも褒めるのだろうかということだった。そして、こんなものと比べるなら俺の方がまだ面白いものが書けるに違いないと、不遜といえば不遜な、結果については思いを馳せもしなかったが、少なくともこれには勝てるなというやや絶対的な、しかし決して高ぶったものでもない自信が兆してきた。
(石原慎太郎『弟』)
それで石原慎太郎は原稿を書く。当時の文學界新人賞の規定枚数は400字詰原稿用紙30~100枚だったが、「太陽の季節」はちょうど100枚。この枚数を2日で書いて、悪筆ゆえ校正も兼ねて3日かけて清書した。賞金は30万円だった。石原慎太郎は就活もしており、日活と東映を受けたが、そのまま就職していたら、当時の初任給は月給1万円~1万5000円。この20倍を5日で稼いだわけで、コスパよすぎだ。
ちなみに選考委員は伊藤整、井上靖、武田泰淳、平野謙、吉田健一で、賛成派が伊藤整、井上靖、武田泰淳の3人。反対派は平野謙、吉田健一の2人。吉田健一は「体格は立派だが頭は痴呆の青年の生態を胸くそが悪くなるほど克明に描写」と評している。
ストーリーは皆さんご存じのとおりだが、主人公の竜哉は性交を競技(ボクシング)のように思っている。
以下、石原慎太郎『太陽の季節』から引用しよう。
(竜哉が強く英子に魅かれた理由は?)
彼が拳闘に魅かれる気持と同じようなものがあった。/それはリングで叩きのめされる瞬間、抵抗される人間だけが感じる、あの一種驚愕の入り混ざった快感に通じるものが確かにあった。
(初めて英子と性行為に及んだときは)
竜哉は彼女を手元にとらえて貪欲にふみにじる前に体をかわされ、自らが彼女の網の内に
(初めての性行為の二日後は)
その日から三日続けて二人は逢った。二日目、彼はもう英子との勝負を忘れて翻弄された。が、最後の夜、彼女の目の下に青く黒い隈を見出し、彼は自分の挽回のポイントを思った。
というように性愛を勝ち負けで考えている。石原慎太郎自身は真面目な人で、小説は弟の裕次郎から聞いた話がもとになっているのだが、石原慎太郎はこれを書いた意図として、
「インモラルという人間にとってはいわば永遠の主題を、現代のアンファン・テリブルにかぶせて書いたら、大人たちは少しはどきりとするだろうと思った」
(アンファン・テリブル=遠慮なく他人を困らせる子ども)
と言っている。小説を使って大人をからかってみせたということだろうか。
「俺の目の黒いうちはこんなものは出せん」
ここからは文學界新人賞を離れてしまうが、「太陽の季節」がいかに賛否両論あったかがわかるので、芥川賞の選評を見てみよう。
〔賛成派〕
舟橋聖一
〈快楽〉と、素直に真っ正面から取り組んでいる。この取り組み方が、非常に明るくはっきりしている。
石川達三
如何にも新人らしい新人である。
井上靖
その力量と新鮮なみずみずしさにおいて抜群。一人の青年を理窟なしに無造作に投げ出してみせた作品は他にない。こんな青年が現代には沢山いるに違いない。
〔消極的支持派〕
瀧井孝作
読後、“わるふざけ”というような、感じのわるいものがあった。
中村光夫
〈丁度〉を〈調度〉と書くような学生に芥川賞をあたえることは考えもの。
川端康成
若気のでたらめ。勝手にすればいいが、なにかは出来る人にはちがいない。
〔反対派〕
佐藤春夫
文芸として最も低級。当選の連帯責任は負わない。
丹羽文雄
この作品の手の内がわかるような気がする。
宇野浩二
新奇な作品としても、一種の下らぬ通俗小説。
選考会でも賛否両論あったが、文藝春秋社内でも賛否両論あり、出版部長だった方が「俺の目の黒いうちはこんなものは出せん」と出版を許さなかったため、単行本はなかなか出版されなかった。
石原慎太郎のすごいところは、それならばと受賞作「太陽の季節」を新潮社に売り込んで出版したことだ。なるほど、だから今も新潮文庫に入っているのか。それにしても文藝春秋の賞でデビューして、新潮社から出版するなんてね。でも、のちに芥川賞の選考委員を務めているから、きっとうまくやったんだね。剛腕だ。
川端康成の評に「なにかは出来る人にはちがいない」とあるが、一橋大学時代、「一橋文芸」を復活させる予算を捻出するためにOBの伊藤整宅を二度訪ね、計2万円(初任給の約2倍!)を寄付させている。「太陽の季節」の映画化の際には日活が30万円を提示したのに対し、東映からも話が来ているとブラフをかまし、値を50万円に釣り上げている。作家より実業家に向いていると言う人もいたらしいが、昭和43年、参議院選挙に立候補して300万票超を得て当選し、政治家になった。
余禄。1991年(平成3年)、都営地下鉄12号線路線名の公募が行われ、応募多数は「都庁線」、都営地下鉄12号線路線名称選考委員会が決定したのは「東京環状線」だったが、都知事だった石原慎太郎が「どこが環状線なんだ」と物言いをつけ、本人の意向もあって「大江戸線」となった。まあ、賛否両論あろうかと思うが、小説同様、ドライでストレートで、ナイスガイという気がする。
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